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ICT委員会誕生秘話

ICT Advent Calender2013の3日目(12月3日)の記事です。

 

はじめに

昨日、ICT委員会の委員長交代があった。3年間の長きにわたって権力をほしいままにしたなっちゃんが引退し、きっきが第5代委員長に就任した。委員長の引き継ぎ式については引退直前のなっちゃんのブログや引退式にほとんど参加できず後からビデオをみて胸を熱くしたkagamizのブログを読んでもらいたい。

 

沖縄高専は今年で創立10周年を迎えた。その中で新委員長を迎えたICT委員会がどのような経緯を経て誕生したのか、記録を残す意味を含めて振り返ってみたい。

 

2004年

この年、沖縄高専が設立され4月に1期生の入学式が挙行された。新入生達は先輩もいなく1年生だけで学校を作り上げていった。学生は次々と部活を立ち上げていったが、バスケ部やバレー部、吹奏楽部といった中学校の延長線上に部活を作っていった。ロボコンにあこがれて高専に入学した学生もいたのでロボコン部も作られた(なんとこの年に1年生だけのチームでロボコンに参戦している)が、プロコンを知る学生はいなかった。私自身も吹奏楽部の顧問だった。

学校としては高専プロコンの活動の重要性は認識しており、新居浜で行われたプロコンに校長とyasuc先生が視察に行っている。

 

2005年

10月9,10日に行われたプロコン米子大会には私が視察として派遣された。初めて見たプロコンに高専生のパワーを感じたのだが、沖縄高専はまだ最高学年が2年生なので参加はとても無理だと思いながら競技、自由、課題の各部門を見て回った。視察してみて分かったことは2年生だけのチームで参加している学校がある。他校の指導教員から自由・課題部門は開発のハードルが高いが、競技部門は最悪開発が終わらず、プログラムが動かなくても何とかなるとの話を聞いて、沖縄高専のプロコン参戦も無理ではないことが分かったのが最大の収穫であった。

実はこの米子での視察だが、2日目に体調を崩した。熱も出たので2日目の朝に急遽帰ることにした。沖縄に帰ってきてから分かったのだが、おたふく風邪に罹っていた。ということは、米子から沖縄までおたふく風邪のウィルスをまき散らしながら帰ってきたことになる。2005年10月中旬に鳥取県、岡山県、兵庫県、沖縄県でおたふく風邪に罹った人がいたら私がうつしたのかもしれません。

おたふく風邪のウィルスをまき散らしながら来年はプロコン初挑戦することを決めた。

 

2006年

前年の米子での視察を踏まえプロコンに初参加することは決めていたが学内に組織が全くない。そこで私が中心となって教員5人からなるプロコン実行委員会を組織した。そこで決めたことは高専プロコン茨城大会とパソコン甲子園にでることだった。予算は校長と交渉し備品としてノートPC2台、デスクトップPC6台を購入した。さらに産学連携協力会から10万配分してもらうこととなった。活動場所(2年間限定だが専有できる部屋)を確保した。また、企業から5万の寄付金をいただけることになった。

学生に参加を呼びかけた結果、高専プロコンは競技部門(3年女子4名と2年男子1名)、課題部門(2年男子2名、女子3名)の2チームが結成された。結果は競技部門2回戦敗退、課題部門は特別賞を受賞した。このとき競技部門のリーダーを務めたあかね先輩が後にICT委員会を設立し初代委員長となる。

パソコン甲子園はプログラミング部門の予選に2チーム挑戦し、高専プロコン競技部門に参加した3年女子が作ったチーム「トルコアイス」が全国大会に出場を果たした。結果は1問も解けないという残念な結果に終わった。

また、この年は学生が自主的に情報オリンピックに挑戦し、本選に2名出場し、内1人は春合宿に参加している。

学校設立3年目で初挑戦したコンテストとして、4年生以上の先輩がいない環境で、プロコンがどんなものか分からない状況で参加したにも関わらず、すばらしい結果を残したといえる。

 

2007年

前年に参加した高専プロコンとパソコン甲子園に加えて、ACM/ICPCプロコンへの参加を当初計画した。学生はまだ組織化されていないので、教員が主導して推進するためプロコン実行委員会を昨年に引き続いて組織した。

プロコンは競技部門と課題部門にエントリーしたが課題部門は予選落ちした。競技部門は6人でチームを作ったが6人中3人は前年にプロコンに参加した学生だった。結果は決勝戦5位だった。沖縄高専はプロコン競技部門でのこの結果を超える成績は未だ残せていない。

パソコン甲子園はデジタルコンテンツ部門に2年生2人が挑戦しグランプリを受賞する快挙を果たしたが、プログラミング部門は予選落ちしてしまった。

また、ACM/ICPCプロコンへは参加しなかった。

この年もよい結果を残すことができた。

 

2008年

 この年、ICT委員会が誕生した。教員主導ではなく学生の活動が組織化された最初の年である。

活動はかなり活発だった。参加した大会/コンテストは高専プロコン、パソコン甲子園情報オリンピック、EPOCH@まつやま、スパコンとICT委員会史上最多ではないかと思う。成績は高専プロコンは競技部門で1敗戦敗退、敗者復活敗退、パソコン甲子園はプログラミング部門予選通過、本選は受賞無し、デジタルコンテンツ部門はグランプリで連覇、EPOCH@まつやまは特別賞(四国総合通信局長賞)、スパコンは予選通過、本選では受賞無し、の結果であった。特筆すべきはパソコン甲子園のグランプリ連覇であるが、これはデジタルコンテンツ部門での受賞であり、この年、結成されたデジタルアート部の活動成果である。

その他の大会/コンテストへの参加はICT委員会の活動の成果かというと実はそうではない。ICT委員会が結成されたのはこの年の全てのコンテストが終了した後である。実は2006年、2007年に高専プロコンに出ていたあかね先輩は高専プロコンの競技部門への参加を希望していたが、校内予選で落ち、この年なんの大会にもでていなかったのである。5年生になったあかね先輩は後輩を集めてプログラミングを教え始めた。部活という形ではなく任意で集まった非公式の同好会といった活動だった。まだICT委員会という名前すらもない活動である。ICT委員会はあかね先輩が始めた活動からスタートしたのである。現在のICT委員会は全国的にも珍しい女子学生が支配するプログラミング系の部活であるが、ICT委員会を創設したのが女子学生であったことを考えると、現在の状況は当然であると言えるかもしれない。

 

2009年

 この年にICT委員会は学生会の組織に正式に位置づけられることになる。しかし名前はICT委員会ではなく、プログラム製作委員会だった。正式に位置づけられたのはプロコン等での活動に対して学校側が認めたと言うことと、2008年に高専プロコンに出場したチームに学生会長がいたことが関係していたのかもしれない。さらにこの年の学生会規定の改正に伴って、プログラム製作委員会はICT委員会と名前を変えることになる。

 

さいごに

2008年に誕生したICT委員会の歴代部長/委員長は以下の通りである。委員長の選出は一貫して民主的な話し合いではなく、前委員長の指名で決定している。これもICT委員会の伝統であろう。

 

2008年 部長:あかね先輩

2009年 委員長:しろめ先輩

2010年 委員長:たかとさんだー

2011年 委員長:なっちゃん

2012年 委員長:なっちゃん

2013年 委員長:なっちゃん 副委員長:きっき

2014年 委員長:きっき 副委員長:あやもが

 

以上がICT委員会誕生秘話である。学校設立からICT委員会が立ち上がるまで5年近くがかかった。当時のことを思い出すと、今のICT委員会は信じられないぐらい活発に活動している。

これからは新しく就任したきっき委員長のもとでICT委員会は頑張ってくれるものと信じている。それには、「全国の」ICT委員会の部員の力が必要である。きっき委員長をもり立てて楽しくやりがいがあり、お互いを刺激しあい、自らが成長できる活動を続けて欲しい。

 

私は卒業式の日に「弟子認定」をしている。これは卒業までの間、その学生生活を通して私から大きな影響を受けた学生を弟子であると勝手に認定するものである。これまで沖縄高専は5回卒業式があり、卒業生の数は800人近くになるが、弟子認定者はまだ2人である。実質的にICT委員会を設立したあかね先輩はその第1号である。

 

明日はICT委員会久留米支部の@ichigo_o_re氏にバトンタッチします。